チェリーテラスの食とレシピ

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細川亜衣さんとサンジュリアーノ・マーマレード

熊本在住の料理研究家・細川亜衣さんから、サンジュリアーノ・マーマレードについて、すてきなコラムとレシピが届きました。

 私が初めてシチリアを訪れたのは、もう四半世紀も前のことになる。料理を学ぶために渡ったイタリアで、どうしても行ってみたい場所があった。東京のイタリア語学校の掲示板に掲げられていた小さな紙切れに、”太陽の料理”という名のシチリア料理の学校があることを知ったのだった。いつかそこを訪れたい。その一心で、ローマとフィレンツェで言葉を学び、夏のある日、私はエトナ山の麓の小さな町に辿り着いた。
 カポナータ、いわしのパスタ、ファルソマーグロ…学校では数々のシチリアの伝統料理を教えてもらったが、それ以上に、滞在先として紹介された家での毎日こそが、私にとって何よりもの学びであり、幸福であった。
 
 シチリア独特の古い石造りの建物の中庭には、オレンジやマンダリン、レモンなどの木が茂り、庭を眺めながらいつも朝食をとった。手作りのケーキとごまつきのパン、白いバター、そして、柑橘のマルメッラータとカッフェ・ラッテ。私が席に着く少し前に、お母さんのアンナは庭へ出てブラッドオレンジをもぎ、昔ながらの柑橘搾りでぎゅーっと汁を搾って真っ赤なジュースを作ってくれた。真夏の朝食にはレモンのグラニータが登場した。バールや専門店で食べるグラニータと違い、少しざくざくした食感が家庭的で好きだった。グラニータはブリオッシュというほんのり甘いパンを浸して食べるということも、教えてもらった。
 菓子作りにも柑橘は大活躍した。芳しい皮は何日もかけてピールにする。カスタードクリームにはレモンの皮を入れて卵の匂いを消し、米を牛乳で炊いて揚げるお菓子には、オレンジの皮を入れた。
 朝食やおやつはもちろんのこと、料理にも柑橘は欠かせない材料になった。トマトがない冬のサラダには、オレンジを入れる。サニーレタスやエンダイブ、フェンネルとともに、ワインビネガーとオリーブ油、塩であえるだけで、目の覚めるようなサラダが出来上がった。その甘酸っぱさが忘れられず、シチリアを離れ、イタリアの別の町で自炊をするようになってからも、私はせっせと八百屋でオレンジを買い、サラダを作って食べた。オレンジ入りのサラダは、イタリアで私が間違いなく一番頻繁に作った料理の一つだ。
 シチリアと同じく、柑橘王国である熊本に暮らしている今、秋の初めに出回る小さくて少し酸っぱいみかんでよくサラダを作る。2月になると熊本でもネーブルオレンジが出回るが、なぜかここではオレンジよりも小みかんのサラダをより体が欲するのだ。
 
 アンナは、私に数えきれないほどの料理を教えてくれた。市場へ買い物へ出かけたり、台所に立つ彼女を必死で追いかけ、見るもの、食べるもの全てを頭と心に刻んだ。一緒に食卓を囲んで食べた料理は拙い絵とともに日記に記し、レシピは一つ残らず紙に記して束ね、何冊もの分厚いファイルとなっていまも大切に残している。
 柑橘のマルメッラータ、それを使った料理や菓子。あまりにもたくさんのことを教えてもらったので、もはや詳しく思い出せないものも多いが、シチリアの柑橘の類稀な香りと、甘酸っぱさは、いつまでも私の心に残っている。
 その後も、幾度となくシチリアに通った。料理人の友と訪れた森の中で、橙色に光る丸い実に出会った。木からもぎ、緑の中で齧ったarancia amara(苦いオレンジ)と呼ばれる柑橘が、日本の”橙”であることを知ったのはだいぶ後になってからだった。
 トラーパニの海を見渡す食堂をひとり訪れた時のこと。生のめかじきが食べたくて、給仕人に”生で食べたい”と拙いイタリア語で伝えたら、”あー、レモンで料理するという意味だね”と言われて戸惑った。しばらくして運ばれてきたのは、脂ののっためかじきをたっぷりのレモンの搾り汁でマリネしたものだった。シチリアでは、レモンは立派な調味料になるのだ。

 オレンジ、レモン、ノバ・クレメンタイン、ビターオレンジ、グレープフルーツ。
サンジュリアーノ農園は未だ訪れたことがないが、朝もいだ完熟の実をその日のうちにマルメッラータにするという。イタリアのジャムらしい、きっちりとした甘さと、その甘さにかき消されることのない濃厚な香り。このマルメッラータに出会うまでは、あまりジャムを食べる習慣のなかった私が、一口食べてすっかり虜になってしまった。
 瓶の中からすくい出す艶々のマルメッラータから、折に触れてシチリアを感じることができる。木からもいだばかりの完熟の実は、もうそれ以上何もする必要がないほどに完璧な食べ物だ。しかし、その肥沃な大地から生まれるたわわな実りに、人々の知恵と手間をかけ、生の果実とは別の次元のおいしさを瓶の中に閉じ込める、サンジュリアーノ農園の魔法に、私はただひと言、”grazie”と伝えたい。

 毎朝のバタートーストにひと匙の輝くマルメッラータを添えて、あるいは、その甘さやほろ苦さ、香りを生かして料理やデザートに。サンジュリアーノのマルメッラータとともに、私の暮らしは一日、また一日と続いてゆくだろう。

細川亜衣さんのマーマレードレシピ

色よくトーストした食パンに、マーマレード(オレンジ)を端までしっかりと塗り、
さらにトーストする。
飴色になったらバターの薄切りをまんべんなくのせ、シナモンスティックをたっぷりと削る。